みやざき歴史遺産

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2010年08月15日 日曜日

見立鉱山と英国館

 (放送期間:2010年8月15日~9月14日)

今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、日之影町見立にある見立鉱山と英国館です。
青雲橋の袂から、山深く入ったところにあります。



昭和44年に閉山となった見立鉱山は錫の鉱山でした。
社員住宅や鉱山事務所、集会所、診療所などが立ちならんでいました。
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見立鉱山 住宅.JPG

東洋鉱山株式会社 社長のハンスハンターによって建てられた英国館は、
鉱山の社員や来賓の社交場、宿泊施設として利用されました。
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英国館は、当時は倶楽部ハウスという名前で親しまれていました。
この時代には珍しい造りになっています。

およそ80平方メートルのホールには、ベンチや暖炉があります。
床下にはスチーム暖房がめぐらされていました。
【ホール】
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【バスタブや洗面所】
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【電気ストーブ】
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平屋建て、延べ床面積320平方メートルの建物内には、
ホールの他に、洋室が4部屋、和室も4部屋あり、
和の素朴と洋の合理性が融合した建物となっています。
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ハンスハンターは、大正15年、
旧延岡藩主 内藤政挙から、見立鉱山の経営権を譲り受けました。

その後、見立鉱山はさらなる繁栄を遂げ、
鉱山の象徴だった倶楽部ハウスの周りには、住宅や学校が建てられました。見立小学校.JPG
 

終戦と同時に鉱山は休山。
昭和29年から再び本格的な創業を開始しますが、昭和44年に閉山。
 

倶楽部ハウスは昭和61年に英国館と名を変え、見立の山に姿を現しました。

英国館は、まばゆいばかりに輝いたあの頃を今に伝える、
みやざきの歴史遺産です。

英国館 今.JPG

2010年07月15日 木曜日

堀川運河

(放送期間:2010年7月15日~8月14日)

今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、日南市油津にある堀川運河です。

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江戸時代前期に開削された運河で、飫肥藩 5代目藩主 伊東祐実の命によって、開削されました。
1683年12月5日に掘削を開始し、2年4ヶ月で完成しました。

全長900m、川幅平均27m、水深最大6mの運河です。
 

堀川運河は、
① 木材の搬送
② 関船の管理
③ 農地の確保  のために開削されました。

川を下り始めると、川岸に石積みのスロープを見ることができます。
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弁甲材の上げ下ろし、新造船の進水、船の修理などに利用されました。

平成16年 文化庁の有形文化財に登録された花峯橋。
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花峯橋をくぐりるけると、堀川運河の中で、もっともカーブの多い部分に差し掛かります。
 

水神さまが祭られている、赤岩さまや、
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参勤交代の石船を管理した、御船蔵あと、
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 昭和38年にかけられた見法寺橋などを見ることができます。
見法寺橋下流、西の方角にのびる象川は、飫肥杉の土場として改修されました。

 

堀川橋下流の右岸に、堀川へ下りる石段が見えます。
飫肥藩の蔵があり、飫肥杉や木炭等を蔵に集め、大阪の蔵屋敷に運んでいました。
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人柱伝説の残る、波止鼻を過ぎると、油津港へとそそがれていきます。
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開削から324年、油津の歴史をそこかしこに秘めながら、
今日も穏やかな流れを見せてくれるみやざきの歴史遺産です。

 



 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

2010年06月16日 水曜日

去川御仮屋 二見家住宅

(放送期間:2010年6月15日~7月14日)

今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、高岡町にある去川御仮屋 二見家住宅です。

【去川御仮屋 二見家住宅】
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薩摩街道を東の方角へおよそ600m行った所にある、去川御仮屋 二見家住宅は、
江戸時代に置かれた、薩摩藩の「去川の関所」の御定番を勤めた、二見家の屋敷です。
「去川の関所」は、佐土原城下と鹿児島を結ぶ、薩摩街道の高岡筋に設けられた関所です。

【去川の関所】
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関所跡から、わずかな距離の所にある、二見家住宅は、
洪水時や島津藩主が通る時の宿泊場所、休憩所として使用され、去川御仮屋と呼ばれていました。
島津斉彬や岩倉具視も立ち寄ったといわれています。

 二見家住宅は、南九州の民家に見られる、二棟造りになっています。
座敷棟と居室棟に別れ、当初は、かやぶき屋根でした。

 座敷棟は接客するための部屋です。
釘隠や式台など、賓客をもてなす配慮がされています。

【釘隠】
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【式台】
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居室棟は二見家の居住空間で、実用的な造りになっています。

【台所】
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これは、中央に囲炉裏を設けた、ナカエと呼ばれる部屋です。 
【ナカエ】
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明治5年、薩摩藩の廃止とともに、去川関所もなくなりました。
二見家は、その後も、去川の地に留まり、御仮屋に住み続けました。

去川御仮屋 二見家住宅は、去川の歴史を語る、宮崎の歴史遺産です。
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2010年05月17日 月曜日

家老屋敷 黒水家住宅

(放送期間:2010年5月15日~6月14日)
 

今回ご紹介するみやざき歴史遺産は、高鍋町にある「家老屋敷 黒水家住宅」です。


【黒水家住宅】
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これは、高鍋秋月藩の家老職を勤めた、高級武士・黒水家の屋敷です。
黒谷地区にある愛宕神社を背にするように立っています。


敷地の中には、主屋、味噌蔵、土蔵、籾蔵の4つの建物があります。

【敷地内図】
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黒水家は、代々、兵法家として筑前秋月家の時代から、仕えてきました。
黒水家住宅は、高級武士でありながら、島田御門があった城の北部に建てられています。
 

黒谷地区一帯は、城下町の中心ではありませんでした。
屋敷の門は、南に面して、城の方角を向いています。

【門】
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格子模様の欄間は、飾り気のない簡素なものです。
質実剛健を旨とする、武家らしさが感じられます。

【格子模様の欄間】
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主屋の中で最も格式の高い、上の間は、
玄関から右回りに半円を描くようにして来なければいけません。
鍵座敷の鍵となっているため、前方に突き出した形になっていて、
玄関を正面に見られるような構図になっています。
来訪者の気配を察する事が出来るようになっているのです。

【上の間】
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この屋敷の一角に、
長男 水筑 弦太郎
次男 黒水 長平
三男 秋月 左都夫
四男 鈴木 馬左也
のことを記した、四哲碑があります。

【四哲碑】
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この四兄弟の父親を秋月 種節といいます。
この屋敷の籾蔵に、西南戦争時代に9人の浪士『九烈士』が監禁されました。
その中心人物でした。

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激しく、雄々しい時代の話を秘めた、黒水家住宅は、
質素、素朴でありながら、威厳に満ちています。

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己に厳しく、律した武士の姿にも見えます。
義に生きた武士の佇まいを感じさせてくれる、みやざきの歴史遺産です。

 

 

2010年04月19日 月曜日

都城島津邸

(放送期間:2010年04月15日~05月14日)

 

今回ご紹介するみやざき歴史遺産は、
都城市内にある都城島津邸です。
都城島津邸は、都城市内に残る唯一の、都城島津家の建物です。
【都城島津邸】
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都城島津邸は、都城市内に残る唯一の、都城島津家の建物です。
丸と十の文字の間が離れた形が、都城島津家の家紋です。
私たちが見慣れている島津宗家の家紋と違って、
都城島津家の家紋は、丸と十の文字の間が離れた形です。
【都城島津家の家紋】
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都城島津邸は、明治12年、都城島津家 
26代当主 島津久寛によって建造されました。

およそ5000坪の敷地の、ほぼ中央にある、本宅は、
およそ20の部屋数を誇り、延べ床面積およそ180坪です。

質素こそがこの屋敷全体を通して貫く特徴で、
島津家の、質素で倹約な様がそのまま伝承されています。

【西に面した、入母屋造りの屋根の玄関】
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【都城出身の日本画家 山内多門の戸襖】
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【応接室】
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【連なる4つの和室】
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この他にも、昭和天皇皇后陛下ゆかりの部屋、家具等も展示されています。
本宅2階は、昭和天皇皇后陛下ご宿泊のために改築されたと言われています。
【本宅2階】
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 1階の東に、玄関風の入り口を構えた部屋があります。
昭和28年に造られた、28代当主久厚の母、恭子の部屋です。
【28代当主久厚の母、恭子の部屋】
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質素な男らしさを謳う屋敷の中にある、唯一女性らしい部屋です。
【恭子の部屋に描かれている絵柄】
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庭の南側には、旧領主間にあった 毘沙門天の像があり、
庭から1段低い所にはテニスコートがあります。
さらに下ると、池や大人用・子供用プールも広がっています。
【毘沙門天の像】
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都城島津邸 副主幹 山下真一さんのお話によると、
今後の目標としては、都城島津邸を、
都城の歴史を全国に発信する拠点、
明治の暮らしを伝える文化財として、伝えていきたいとのことです。

〇文化教育施設 〇文化保存施設 〇文化交流施設 として、
みんなに活用される、愛される施設にしていきたいとのことです。
【都城島津伝承館】
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都城島津邸は、1万点以上の都城島津家の資料と共に、
未来へと伝承していく、宮崎の歴史遺産です。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年03月15日 月曜日

榎原神社

(放送期間:2010年3月15日~4月14日)
 

今回ご紹介するみやざきの歴史遺産は、
日南市南郷町にある「榎原(よわら)神社」です。
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宮崎市の神武大祭で、シャンシャン馬行列として再現されている
鵜戸参りは、県民に広く知られたお参りですが、
この鵜戸参りと並んで、
宮崎には人々の信仰を集めたお参りがありました。


それが、日南市南郷町にある「榎原神社」にお参りする、
榎原参りです。


榎原神社は、国道220号線から少し奥まったところに、
堂々とした楼門を構えて、当時の賑わいぶりを伝えています。


【楼門】
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榎原神社の、この楼門と、鐘楼、本殿が、
宮崎県の有形文化財に指定されています。


1658年創建された榎原神社。
この3つの建物は、創建当時はありませんでした。


楼門は1813年に建立されました。


両側には阿像、吽像の2体1対の仁王像を安置しています。


【阿像】                  【吽像】
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さらに、それぞれの上に随神像を安置。


【随神像】 
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仁王は仏法を守るための神。
一方、随神は神道でいう主の神に従う神のことを言います。


神仏習合の組み合わせです。


また、楼門に使われている礎石は榎原石という凝灰岩を加工しています。


【榎原石】
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その上の柱には地場産の飫肥杉を使うなど、
地方の特徴をあらわした貴重な建造物となっています。


【飫肥杉】
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鐘楼は、1842年建立されました。


【鐘楼】
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黒板張りの安定した袴腰を備えています。
袴腰を備えた鐘楼は珍しく、
県の第1号の有形文化財に指定されています。


【袴腰】
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1707年に建立された本社。


【本社】
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手前に出た獅子、横に出た像があります。
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榎原神社には桜井神社という摂社があります。


【桜井神社】
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ここには、榎原神社のご利益と関わりのある内田万寿姫が
奉られています。


内田万寿姫は、1620年に北九州、秋月家の家臣の娘として
生まれ、豊臣秀吉の九州攻めの際に、
日向に国がえを命ぜられ、巡り巡って榎原に移動してきました。


【内田万寿姫】
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当時、この神社に奉仕していた時に、
縁談の話が多かった内田万寿姫。


結婚し、たくさんの子に恵まれ、
平和ですばらしい家庭を作っていたことから、
この神社のご利益は、縁結びと安産とされていると言われています。


現在、万寿姫の命日、旧暦の3月15日、16日には、
縁日祭が行われています。


今もその御利益を求め、多くの人が訪れる「榎原神社」。
人々の想い、願いが満ちた歴史遺産です。

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2010年02月15日 月曜日

宮崎県指定史跡 西郷隆盛宿陣跡資料館~西郷隆盛日向路の足跡~

(放送期間:2010年2月15日~3月14日)

今回のみやざき歴史遺産は、
宮崎県指定史跡の西郷隆盛宿陣跡資料館。

西南戦争を戦い、敗走に敗走を重ね、
西郷隆盛がたどり日向路を歩み、辿り着いた場所です。
 

明治12年7月19日。
約2ヶ月滞在した宮崎市広島の黒木邸を出た、
西郷の一行は、下北方の帝釈寺に2泊し、
日向路を北上。

7月31日、都農町・枡屋に留まった後、
8月2日、西郷は初めて延岡に入ります。
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西郷隆盛宿陣跡資料館 館長の児玉さんの話によると、
当時、軍の人が来て、家の者は軍の食料などを持って、
引き払いなさいと言われたそうです。


その後、籠に入った西郷隆盛が来ました。
西郷さんは持病を持っていたため、
ほとんど籠で移動していたのです。

西郷の一行は、
山内善吉邸に約1週間、8月9日まで滞在しています。
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善吉邸に居た時は、川で水浴びをしたりと、
リラックスした様子だったといいます。
 

8月10日は本小路の原時行邸。
8月12日夜半には、五ヶ瀬川を下って、
北側をさかのぼって行きます。

それから、8月12日、可愛の児玉安治邸で昼食をとりました。
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夕刻、熊田の吉祥寺に入ります。
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吉祥寺住職の霊元さんによると、
西郷が来ると、吉祥寺の檀家の一人が、
蕎麦をふるまったそうです。
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なんとその時、西郷は、
丼、7杯くらい食べたといいます。
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15日未明、西郷軍は、
最後の戦い、和田越戦に向けて出陣しました。
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ほとんどの場合、陣頭指揮をとらない西郷でしたが、
この和田越の戦いに限っては自らが前線に立ちました。

官軍5万に対し、西郷軍は3千5百。
四方から官軍の包囲され、朝から昼過ぎまで続いた戦いは、
もはや勝ち目はありませんでした。

この最後の決戦に敗れた西郷軍は、
俵野の児玉熊四郎邸に本営を置きました。
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その周辺の家や寺は、西郷軍の病院などに使用されました。
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住民は全体的に薩軍に好意的で、 
西南戦争が終わった後も、西郷に慕い、
不満を言うものは居なかったといいます。

この場所で、西郷は解散布告令を出しました。
そして、最後の軍議が行われ、
西郷がついに結論を出したのです。
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「まず包囲網を破って、可愛岳を突破しよう。」
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その後、西郷の意思に従って、行動がなされました。


8月17日 可愛岳突破を図り、深夜経った西郷軍。
出発したのは600人。
内、自刃した者も多数いるといいます。


半月近く、山岳の逃避行は、
鹿児島の城山に至るまで続きました。

俵野の宿陣は、
西郷がそれまで築いてきた全てに決別した、
最後の2日間となったのです。
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2010年01月15日 金曜日

特別史跡 西都原古墳群

(放送期間:2010年1月15日~2月14日)

今回ご紹介する宮崎の歴史遺産は、
古代ロマンあふれる西都原台地の古墳群です。

全部で311基の高塚が点在する西都原古墳群は、
日本最大級の古墳群です。
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大正元年から大正6年にかけて、
日本で初めて本格的な学術調査が行われた場所でもあります。

第13代宮崎県知事 有吉忠一の陣頭指揮の下
行われたものでした。

日向神話を実証しようと有吉知事が発案したもので、
全体の1割、30基について調査が実施されました。

【大正時代の調査団】
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墳丘、いわゆる古墳の形は様々です。

【左から順に円墳、帆立貝形古墳、方墳】
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前方後円墳は作られた時代で形が違います。

【前期】
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【中期】
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【後期】
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この様な形が用いられたのは、
前方部は使者を祭る行事を行うための場所、
後円部を亡骸を納めるための場所にした為でした。

鬼の窟(いわや)古墳は、
その特徴的な形から西都原古墳を象徴する古墳となっています。
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特徴とは、周りに高い土手を築いているという事です。

鬼の窟古墳が作られたのは古墳時代の終り。
古墳は徐々に庶民化されてきていました。
大きさで権力を示す古墳。
外見を少しでも大きく見せ様と工夫されたそうです。rekishi-10.01.15-saito09.jpg

西都原には宮内庁管理の大規模な古墳が2つあります。
男挟穂塚と女挟穂塚です。
現在は御陵墓参考地となって一般の立ち入りは禁じられいて、
その全容を見ることはできません。

神武天皇に始まる、天皇家との繋がりを感じさせる巨大古墳です。

古事記・日本書紀に現れる日本神話の中で、
ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの墓ではないかと言われ、
明治28年に宮内庁の管理下となりました。

【左:女挟穂塚、右:男挟穂塚】
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男挟穂塚は、全国の帆立貝形古墳の中で一番大きく、
女挟穂塚は、九州で一番大きな前方後円墳です。
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4世紀前半に作られた100号墳からは、
1600年の時を越え、
古墳の製造過程、構造を間近に見ることができます。
 

墳丘表面の葺石(ふきいし)は発掘当時のままで、
古墳本来の姿が残されています。

【100号墳】
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【葺石】
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西都原古墳群は、はるか悠久の彼方から
古代人のメッセージが聞こえてくる、
宮崎の歴史遺産です。


 

2009年12月15日 火曜日

佐土原城址と城下町

(放送期間:2009年12月15日から2010年1月14日)

今回ご紹介する宮崎の歴史遺産は、佐土原城址と城下町です。
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佐土原城は本丸の他に、南の城、
南の城の南端にある松尾丸の3つで構成されていて、
築かれたのは鎌倉時代の初期、
もしくは中世時代の1500年代とされています。
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城山の麓の二の丸跡には、1600年代に復元された
武家屋敷「鶴松館」があります。
現在、歴史資料館として佐土原の町の歴史を、
今に伝えています。
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佐土原の町は明治維新の廃藩置県に至るまで、
この城を中心におよそ300年もの間栄えてきました。

佐土原城は田嶋氏が築城したと伝えられ、
その後、伊藤氏の伊藤三位入道義祐が1536年に入城しました。
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しかし、その後すぐに全て火事で焼けてしまい、
伊藤は宮崎城に移り、改築したのが、
今の佐土原城の原形になります。
 

1577年、伊藤氏を破った島津氏が佐土原城に入り、
佐土原を治めることになります。
前島津家久、豊久の時代です。
 

1603年、島津以久が、
佐土原藩、島津氏の初代となって入城します。
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この城には天守があったのではないかといわれ、
平成8年の発掘調査の後、天守台が見つかったのです。
それを作ったのが2代藩主。実は側室の子でした。

正室の子ではないので、権力を示そうと、
金箔のしゃちほこを盛った天守を作ったと言われています。
天守台は南九州でも珍しいものです。


天守台跡              発掘された金箔のしゃち瓦
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佐土原を中心とした城下はどういった町だったのでしょうか。

明治3年に広瀬に城を移したため、
佐土原城の周りには庶民が移り住んできました。
その為、武士や氏族の名残が消えた、
普通の城下とは少し違った趣になっています。


しかし、古い歴史を物語るように、
町には多くの寺や神社が残されています。


島津家2代藩主の忠興が建立した寺で、
島津家の菩提寺となっている、高月院。
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重要文化財 文殊菩薩を安置する大光寺。rekishi-09.12.15-21.jpg
 

 



 

 

 




 


いずれも明治時代に行われた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の
嵐の中を潜り抜けてきた寺です。
 

明治2年に広瀬へと移り、築城の途中であった城も、
2年後の廃藩置県で工事は中止され、
佐土原城の歴史は終りを告げました。


豊かで優雅な時代を築いたと思われる佐土原城。
その姿を残された石垣が物語っています。

2009年11月15日 日曜日

重要伝統的歴史建造物群保存地区 日向市・美々津

(放送期間:2009年11月15日から12月14日)

今回ご紹介するみやざきの歴史遺産は、
日向市・美々津にある重要伝統的歴史建造物群保存地区です。

神武天皇お舟出の地として伝えられている美々津。
その河口から南の方角に広がる一帯は、
その多くが今も江戸時代の原形をとどめたままです。
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東西330メートル、南北350メートル。
その範囲の中に、重要伝統的建造物が散在しています。
その数、現在、96軒。
江戸時代末から明治時代にかけてのものがほとんどです。
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江戸時代から続く地割りは、
南北に走る道路によって、
上町、中町、下町の3つに区分されています。
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明治時代の平入り町屋が並ぶ、旧豊後街道沿いにある上町。
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札の辻と呼ばれた、高鍋藩時代の高札場があった所でもあり、
最も賑わった町でした。
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廻船問屋として栄えた、江戸時代の町屋が多く軒を連ねた中町。
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上町、中町に比べ狭い路地に、船員や船大工が多く居住し、
その後漁村として成り立った下町。
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それぞれの町の境界線は石垣で区分けされ、段差が付いています。
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上町の札の辻に残る、
美々津軒と美々津まちなみセンターは、
いずれも明治期に建てられた町屋で、現在公開されています。

美々津軒は廻船問屋でした。
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家の中には箱階段があります。
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そして、押入れの中には隠し部屋があります。
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中を覗いてみましょう。
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当時はこの隠し部屋に着物や美術工芸品を保管し、
台風の時期になると船が出れず輸入ができなくなるため、
その時期を見計らって2、3倍で売れる様に駆け引きをしたのだとか。


一方、美々津まちなみセンターは明治時代の典型的な町屋の造りで、
藤保という呉服問屋でした。
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1階はお店、2階は居住区となっていましたが、
蔵として使われた時期もあったそうです。

(1階)
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(2階)
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そして、この町の特徴の一つが4箇所に点在する共同井戸です。
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土地の狭さから生み出された井戸ですが、
様々な情報交換の場になっていたことと思われます。
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さらに、この町のもう一つの特徴が、
東西に突き抜ける「ツキヌケ」という支道路です。
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まるで、町を寸断するかの様に設けられたこの道路。
火避け地としての役割をしていました。
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大阪との交易を盛んにしていた美々津。
その中心を担ったのが、
中町に軒を連ねる廻船問屋でした。

日向歴史民俗資料館は日向市でも屈指の廻船問屋、
旧河内屋を修復復元たものです。
昭和55年に日向市に寄贈されました。
美々津の町並みを保存するきっかけとなった建物です。
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それから、昭和61年12月8日に、
美々津の町並みは国の重要伝統的建造物保存地区に
選定されました。

残したかった町。守りたかった町。
潮の香りと吹き抜ける海風の町。
宮崎歴史遺産の町です。
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