みやざき歴史遺産

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2010年02月15日 月曜日

宮崎県指定史跡 西郷隆盛宿陣跡資料館~西郷隆盛日向路の足跡~

(放送期間:2010年2月15日~3月14日)

今回のみやざき歴史遺産は、
宮崎県指定史跡の西郷隆盛宿陣跡資料館。

西南戦争を戦い、敗走に敗走を重ね、
西郷隆盛がたどり日向路を歩み、辿り着いた場所です。
 

明治12年7月19日。
約2ヶ月滞在した宮崎市広島の黒木邸を出た、
西郷の一行は、下北方の帝釈寺に2泊し、
日向路を北上。

7月31日、都農町・枡屋に留まった後、
8月2日、西郷は初めて延岡に入ります。
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西郷隆盛宿陣跡資料館 館長の児玉さんの話によると、
当時、軍の人が来て、家の者は軍の食料などを持って、
引き払いなさいと言われたそうです。


その後、籠に入った西郷隆盛が来ました。
西郷さんは持病を持っていたため、
ほとんど籠で移動していたのです。

西郷の一行は、
山内善吉邸に約1週間、8月9日まで滞在しています。
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善吉邸に居た時は、川で水浴びをしたりと、
リラックスした様子だったといいます。
 

8月10日は本小路の原時行邸。
8月12日夜半には、五ヶ瀬川を下って、
北側をさかのぼって行きます。

それから、8月12日、可愛の児玉安治邸で昼食をとりました。
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夕刻、熊田の吉祥寺に入ります。
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吉祥寺住職の霊元さんによると、
西郷が来ると、吉祥寺の檀家の一人が、
蕎麦をふるまったそうです。
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なんとその時、西郷は、
丼、7杯くらい食べたといいます。
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15日未明、西郷軍は、
最後の戦い、和田越戦に向けて出陣しました。
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ほとんどの場合、陣頭指揮をとらない西郷でしたが、
この和田越の戦いに限っては自らが前線に立ちました。

官軍5万に対し、西郷軍は3千5百。
四方から官軍の包囲され、朝から昼過ぎまで続いた戦いは、
もはや勝ち目はありませんでした。

この最後の決戦に敗れた西郷軍は、
俵野の児玉熊四郎邸に本営を置きました。
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その周辺の家や寺は、西郷軍の病院などに使用されました。
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住民は全体的に薩軍に好意的で、 
西南戦争が終わった後も、西郷に慕い、
不満を言うものは居なかったといいます。

この場所で、西郷は解散布告令を出しました。
そして、最後の軍議が行われ、
西郷がついに結論を出したのです。
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「まず包囲網を破って、可愛岳を突破しよう。」
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その後、西郷の意思に従って、行動がなされました。


8月17日 可愛岳突破を図り、深夜経った西郷軍。
出発したのは600人。
内、自刃した者も多数いるといいます。


半月近く、山岳の逃避行は、
鹿児島の城山に至るまで続きました。

俵野の宿陣は、
西郷がそれまで築いてきた全てに決別した、
最後の2日間となったのです。
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2010年01月15日 金曜日

特別史跡 西都原古墳群

(放送期間:2010年1月15日~2月14日)

今回ご紹介する宮崎の歴史遺産は、
古代ロマンあふれる西都原台地の古墳群です。

全部で311基の高塚が点在する西都原古墳群は、
日本最大級の古墳群です。
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大正元年から大正6年にかけて、
日本で初めて本格的な学術調査が行われた場所でもあります。

第13代宮崎県知事 有吉忠一の陣頭指揮の下
行われたものでした。

日向神話を実証しようと有吉知事が発案したもので、
全体の1割、30基について調査が実施されました。

【大正時代の調査団】
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墳丘、いわゆる古墳の形は様々です。

【左から順に円墳、帆立貝形古墳、方墳】
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前方後円墳は作られた時代で形が違います。

【前期】
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【中期】
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【後期】
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この様な形が用いられたのは、
前方部は使者を祭る行事を行うための場所、
後円部を亡骸を納めるための場所にした為でした。

鬼の窟(いわや)古墳は、
その特徴的な形から西都原古墳を象徴する古墳となっています。
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特徴とは、周りに高い土手を築いているという事です。

鬼の窟古墳が作られたのは古墳時代の終り。
古墳は徐々に庶民化されてきていました。
大きさで権力を示す古墳。
外見を少しでも大きく見せ様と工夫されたそうです。rekishi-10.01.15-saito09.jpg

西都原には宮内庁管理の大規模な古墳が2つあります。
男挟穂塚と女挟穂塚です。
現在は御陵墓参考地となって一般の立ち入りは禁じられいて、
その全容を見ることはできません。

神武天皇に始まる、天皇家との繋がりを感じさせる巨大古墳です。

古事記・日本書紀に現れる日本神話の中で、
ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの墓ではないかと言われ、
明治28年に宮内庁の管理下となりました。

【左:女挟穂塚、右:男挟穂塚】
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男挟穂塚は、全国の帆立貝形古墳の中で一番大きく、
女挟穂塚は、九州で一番大きな前方後円墳です。
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4世紀前半に作られた100号墳からは、
1600年の時を越え、
古墳の製造過程、構造を間近に見ることができます。
 

墳丘表面の葺石(ふきいし)は発掘当時のままで、
古墳本来の姿が残されています。

【100号墳】
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【葺石】
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西都原古墳群は、はるか悠久の彼方から
古代人のメッセージが聞こえてくる、
宮崎の歴史遺産です。


 

2009年12月15日 火曜日

佐土原城址と城下町

(放送期間:2009年12月15日から2010年1月14日)

今回ご紹介する宮崎の歴史遺産は、佐土原城址と城下町です。
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佐土原城は本丸の他に、南の城、
南の城の南端にある松尾丸の3つで構成されていて、
築かれたのは鎌倉時代の初期、
もしくは中世時代の1500年代とされています。
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城山の麓の二の丸跡には、1600年代に復元された
武家屋敷「鶴松館」があります。
現在、歴史資料館として佐土原の町の歴史を、
今に伝えています。
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佐土原の町は明治維新の廃藩置県に至るまで、
この城を中心におよそ300年もの間栄えてきました。

佐土原城は田嶋氏が築城したと伝えられ、
その後、伊藤氏の伊藤三位入道義祐が1536年に入城しました。
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しかし、その後すぐに全て火事で焼けてしまい、
伊藤は宮崎城に移り、改築したのが、
今の佐土原城の原形になります。
 

1577年、伊藤氏を破った島津氏が佐土原城に入り、
佐土原を治めることになります。
前島津家久、豊久の時代です。
 

1603年、島津以久が、
佐土原藩、島津氏の初代となって入城します。
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この城には天守があったのではないかといわれ、
平成8年の発掘調査の後、天守台が見つかったのです。
それを作ったのが2代藩主。実は側室の子でした。

正室の子ではないので、権力を示そうと、
金箔のしゃちほこを盛った天守を作ったと言われています。
天守台は南九州でも珍しいものです。


天守台跡              発掘された金箔のしゃち瓦
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佐土原を中心とした城下はどういった町だったのでしょうか。

明治3年に広瀬に城を移したため、
佐土原城の周りには庶民が移り住んできました。
その為、武士や氏族の名残が消えた、
普通の城下とは少し違った趣になっています。


しかし、古い歴史を物語るように、
町には多くの寺や神社が残されています。


島津家2代藩主の忠興が建立した寺で、
島津家の菩提寺となっている、高月院。
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重要文化財 文殊菩薩を安置する大光寺。rekishi-09.12.15-21.jpg
 

 



 

 

 




 


いずれも明治時代に行われた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の
嵐の中を潜り抜けてきた寺です。
 

明治2年に広瀬へと移り、築城の途中であった城も、
2年後の廃藩置県で工事は中止され、
佐土原城の歴史は終りを告げました。


豊かで優雅な時代を築いたと思われる佐土原城。
その姿を残された石垣が物語っています。

2009年11月15日 日曜日

重要伝統的歴史建造物群保存地区 日向市・美々津

(放送期間:2009年11月15日から12月14日)

今回ご紹介するみやざきの歴史遺産は、
日向市・美々津にある重要伝統的歴史建造物群保存地区です。

神武天皇お舟出の地として伝えられている美々津。
その河口から南の方角に広がる一帯は、
その多くが今も江戸時代の原形をとどめたままです。
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東西330メートル、南北350メートル。
その範囲の中に、重要伝統的建造物が散在しています。
その数、現在、96軒。
江戸時代末から明治時代にかけてのものがほとんどです。
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江戸時代から続く地割りは、
南北に走る道路によって、
上町、中町、下町の3つに区分されています。
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明治時代の平入り町屋が並ぶ、旧豊後街道沿いにある上町。
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札の辻と呼ばれた、高鍋藩時代の高札場があった所でもあり、
最も賑わった町でした。
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廻船問屋として栄えた、江戸時代の町屋が多く軒を連ねた中町。
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上町、中町に比べ狭い路地に、船員や船大工が多く居住し、
その後漁村として成り立った下町。
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それぞれの町の境界線は石垣で区分けされ、段差が付いています。
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上町の札の辻に残る、
美々津軒と美々津まちなみセンターは、
いずれも明治期に建てられた町屋で、現在公開されています。

美々津軒は廻船問屋でした。
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家の中には箱階段があります。
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そして、押入れの中には隠し部屋があります。
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中を覗いてみましょう。
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当時はこの隠し部屋に着物や美術工芸品を保管し、
台風の時期になると船が出れず輸入ができなくなるため、
その時期を見計らって2、3倍で売れる様に駆け引きをしたのだとか。


一方、美々津まちなみセンターは明治時代の典型的な町屋の造りで、
藤保という呉服問屋でした。
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1階はお店、2階は居住区となっていましたが、
蔵として使われた時期もあったそうです。

(1階)
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(2階)
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そして、この町の特徴の一つが4箇所に点在する共同井戸です。
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土地の狭さから生み出された井戸ですが、
様々な情報交換の場になっていたことと思われます。
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さらに、この町のもう一つの特徴が、
東西に突き抜ける「ツキヌケ」という支道路です。
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まるで、町を寸断するかの様に設けられたこの道路。
火避け地としての役割をしていました。
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大阪との交易を盛んにしていた美々津。
その中心を担ったのが、
中町に軒を連ねる廻船問屋でした。

日向歴史民俗資料館は日向市でも屈指の廻船問屋、
旧河内屋を修復復元たものです。
昭和55年に日向市に寄贈されました。
美々津の町並みを保存するきっかけとなった建物です。
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それから、昭和61年12月8日に、
美々津の町並みは国の重要伝統的建造物保存地区に
選定されました。

残したかった町。守りたかった町。
潮の香りと吹き抜ける海風の町。
宮崎歴史遺産の町です。
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2009年10月15日 木曜日

豫章館と旧伊東伝佐衛門家

(放送期間:2009年10月15日から11月14日まで)

今回ご紹介する宮崎の歴史遺産は、
日南市飫肥にある豫章館と、
19世紀始めの建築と推定される飫肥の典型的な武家屋敷、
旧伊東伝佐衛門家をご紹介します。

これらの屋敷と武家の暮らしとは、
どういったものだったのでしょうか。


飫肥の城下絵図です。
豫章館は飫肥城の南側。
そして、城の東側、四つ角に伊東伝佐衛門家があります。

城に近いほど、武士の地位が高いとされています。
豫章館と伊東家、どちらとも上級武士だったのです。
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日南市教育委員会 文化生涯学習課文化財係 岡本武憲さんは、

飫肥の武家屋敷の特徴は、
すべて飫肥杉を使っている事、

高温多湿の気候のため、床が高い事、

そして武士は階級によって住み分けをし、
どの屋敷も石垣が充実していると言います。
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【柱はすべて飫肥杉】

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【高い床】
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【多くみられる石垣】
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飫肥藩の武士は2200人余り。

飫肥城に近い所から、上級家臣、中級家臣、下級家臣に
住み分けされていました。

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武士の暮らしぶりとは一体どんなものだったのでしょうか。

 

財団法人飫肥城下町保存会 学芸員 長友禎治さんの
話によると、


上級武士で学者であった「平部嶠南」を例にあげると、

彼は殿様の世継ぎの教育係をしていました。
朝7~8時に登城、2時間程、若殿に教育、

彼は家老でもあった為、その後、役所に行き、
遅くても2時、3時ごろに帰宅。

家では、好きな庭いじりや、学問の勉強、
来客への応対などをしていたという事です。

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さて、豫章館とはどんな屋敷なのでしょうか。

豫章館とは飫肥藩15代藩主 伊東祐相が名づけた、

飫肥城下町では最も格式のある武家屋敷です。
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建物の敷地西側には御数寄屋があります。
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主屋玄関は、千鳥破風の屋根に、主玄関と脇玄関を
構えています。

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中は、L字型に6つの部屋が並び、主座敷には床と書院。

上級武士の家ですが、
藩主の家と基本的には変わっていません。
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中央に井戸を配した庭は、
愛宕山を借景にした枯山水です。

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現在の豫章館は、飫肥伊東家第16代藩主、
伊東祐帰が明治3年に、
場内の飫肥藩庁から移った年から、
飫肥の政務の中心として重きをなしてきました。



 続いて、旧伊東伊東伝佐衛門家は、
どんな屋敷だったのでしょうか。

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上級武士であった伊東伝佐衛門。

伊東家は、建物が江戸期に作られ、
庭園が当時のまま残っており、

屋敷と庭園の位置関係がよくわかる貴重な屋敷です。
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当時が各部屋が全て畳であったかどうかは不明ですが、

各部屋に畳があり、台所だけが板間と土間になっています。
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【台所】
 

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天正16年(1590年)、
伊東祐相の入城に始まった飫肥伊東家。

以後、明治の廃藩置県までのおよそ200年間、
この地方を支配してきました。

幕末から明治への動乱の時期はあったものの、
飫肥藩の武士の生活は穏やかなものでした。


戦う集団である武士の家が軍事目的の家の為だけでなく、

生活第一、更に心の平穏さに重きを置いた
造りになっている事に
新鮮な驚きを覚えます。

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豫章館と旧伊東伝佐衛門家。

数百年の時を越えてもなお、先人の息遣いを感じる、

宮崎の歴史遺産です。
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2009年09月15日 火曜日

宮崎育成牧場

(放送期間:2009年9月15日から10月14日まで)
 

今回ご紹介するみやざきの歴史遺産は、
宮崎市にある宮崎育成牧場です。


その設立は、明治40年にさかのぼります。
戦争による中断をはさみながらも、
昭和38年までこの宮崎の地で、
競馬が開催されていたのです。


宮崎の競馬を形作ってきた宮崎育成牧場。
その100年にもおよぶ歩みに迫ります。
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宮崎競馬会が宮崎神宮から花が島に移転、
開設した明治40年。

電気、電話などが登場した宮崎の変革の年でした。

その新しい気運の中で開設されたのです。
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 気運はあったとしても、そもそも「宮崎に競馬場を」とは
どこからきたものなのでしょう。


宮崎神宮で行われていた神事、
流鏑馬(やぶさめ)がその始まりでした。

そこから、本格的に馬場(ばば)を造ることになったのです。


馬産地という、馬が身近なものであったからこその、
宮崎競馬場の開設でした。
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それから、現在の規模とほぼ変わりない、
1周が1600m、幅27mの競馬場が完成。
11月には、4日間の競馬を2度も開催するなど、
順調な滑り出しをみせます。
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明治43年、宮崎競馬倶楽部と改称。
その後、大正から昭和にかけて幾度となく、
移転計画が持ち出されるも、
反対運動により、その都度、移転を免れました。
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昭和6年。観覧スタンド完成。 

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昭和38年に開催された競馬を最後に
使われることがなくなった観覧スタンドは、
老朽化が進みますが、現在も原型をとどめています。
1600mの楕円型の場内を一望できます。
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場内放送をしていたと思われるブースも残されています。
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建物の中に入ってみましょう。

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2階へあがると、馬券売り場だった場所があります。
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3階には、馬主や来賓の方が使用したと思われる部屋。

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この馬見所は絵葉書にも多く使われていて、
宮崎競馬倶楽部の象徴的な建物だったことが伺えます。

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昭和12年、宮崎競馬倶楽部は「日本競馬会」に統合。

春と秋の2回、競馬が開催されました。

 
昭和18年、戦争により競馬は中断。

戦時中は、爆弾倉庫があり、
軍用として使用されていました。


和21年、競馬再開。

その後昭和38年まで、地方競馬として脚光を浴びました。

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その間、昭和29年からは日本中央競馬会が運営。

昭和54年の宮崎国体では、昭和天皇が訪れ、
馬術競技が開催されました。


 

平成3年に、宮崎育成牧場に名称を変更。

 
平成22年には、利用者登録型の馬券発売所を
開設予定です。


宮崎育成牧場 場長 吉本英昭さんは、

育成牧場のこれからについて、

競走馬の育成と、馬術の普及を目指し、
地域密着型の牧場にしていきたいと話していました。

 
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馬と共に歩み、走り続けた102年という歴史。
さらに100年、新たな人と馬との紡ぎ合いが続きます。
 

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2009年08月15日 土曜日

黒北発電所

 (放送期間:2009年8月15日から9月14日まで)
 

今回ご紹介する宮崎の歴史遺産は、黒北発電所。
平成21年8月は、宮崎市に初めて電気が灯ってから、102回目の夏。
清武川上流にあるこの発電所は、県内で最も古い水力発電所です。
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1907年(明治40年)8月1日。
宮崎に初めて、照明用として電気という光が灯りました。
当時の宮崎町に1780棟分、送電され、
開業して3か月後には、その数、2780棟分に増え、大盛況となったのです。
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ここに至るまでは、7年余りの月日を要しました。
明治33年4月、
高千穂出身で、三種業で名をなした実業家、大和田伝蔵と、
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高知県出身で、警察署長を経た後、実業界に入った柴岡晋。rekishi-090815-03.jpg


この二人が電気事業を計画したの始まりでした。
電力発電において素人の二人が東奔西走する姿をみて、
世間では「止めてシバオカ、金はデンゾウ」というダジャレが
ささやかれていました。



それでも諦めなかった二人。
京都の実業家や地元の経済人の協力を得て、
明治39年、「日向水力電気株式会社 宮崎発電所」を
ようやく設立したのです。
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6月には水路水門の工事、12月には発電所が完成。
明治40年2月に、水車発電機を据え置き、
3月には全ての工事が完了。
工事着手から完成まで9か月という速さでした。
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最大使用水量は、1.67㎥/sec。
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有効落差、16.67m。
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最大出力は、200kw。
1軒の使用電力が約3kw(エアコン2台、テレビ、冷蔵庫を使用)。
60軒分の電力を賄えます。
開業当初は、宮崎市の電気を黒北発電所で賄えたそうです。
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1907年8月1日に送電開始してから、
10月には産業用として、
日州新聞社(現在の宮崎日日新聞社の前身)の
印刷機を運転。
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平成9年には、国の登録有形文化財に指定されました。
宮崎県では第1号の指定です。
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電気のある生活が当たり前になった現在。
100年前、初めて光が灯された時、
人々はどれだけ驚き、感謝をしたことでしょう。
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文明をもたらした一筋の光。
今も宮崎の町を覆い尽くしてくれています。
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2009年07月15日 水曜日

鞍埼灯台

(放送期間:2009年7月15日から8月14日まで)

今回ご紹介する宮崎の歴史遺産は、鞍埼灯台。

宮崎県日南市南郷町の目井津港の沖合いから3㎞に浮かぶ大島。
別名日向大島とも言われ、標高206m、周囲9.37㎞の島。rekishi_0715_020.jpg


この島の南の端にあり、全国で49番目に建てられた灯台が鞍埼灯台。
日本で初めての無筋コンクリート造りです。
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大島にある港、北は小浜港、南は竹之島港。
灯台へ一番近い港は竹之島港でした。
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それでも、灯台までは2km、リュックひとつの軽装でも歩いて、
およそ50分はかかります。


明治、ようやく近代化の扉が開けられた頃。
機材や資材は、人の肩を借りて運ばれ、建設はすべて人力で行われました。
工事は難航を極めたものとなり、1年4か月を経てようやく完成。
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明治17年8月15日に点灯。
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しかし、点灯から61年後。
鞍埼灯台は6回程の空爆を受け破壊されてしまいます。
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戦後復旧した灯台は、4人の職員によって管理されていきます。
当時は、手動のまきあげ式で灯を燈します。
この4世帯の家族は、構内に暮らし、
昭和40年に発動発電機へと変わるまで、
24時間体制で、漁船に絶え間なく光を送ってきました。
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大島で漁業を営んできた鞍埼灯台名誉灯台長の嶋田清己さん。
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南西諸島まで漁に出かけ、戻ってきたとき、
この鞍崎灯台の光をみると、我が家に帰ってきたような、
ほっとした気持ちを今でも思い出すと言います。


鞍埼灯台は、日本の産業近代化に貢献したと認められ、
平成20年度経済産業省によって、
近代化産業遺産と認定されました。
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宮崎海上保安部交通課の松本俊一さんは、
「灯台は船にとって道しるべ。指標になります。
船乗りにとってなくてはならない灯台。
これから先もこの技術、そして建物を守り続けていきたい」と言います。rekishi_0715_013.jpg


時代が変わっても船乗りが自分の目で安全を確認する限り、
灯台の光が途絶えることはありません。
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灯し続けてきた124年間。
あとどれくらい南郷の海を燈し続けてくれるでしょうか。
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2009年06月15日 月曜日

国指定重要文化財 旧吉松家住宅

(放送期間:2009年6月15日から7月14日まで)

今回ご紹介する宮崎の歴史遺産は、
串間市仲町通り沿いにある旧吉松家住宅。

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吉松家は、明治、大正、昭和期で宮崎屈指の富豪として
知られていました。


建物は、大正時代の中頃に建築された、近代和風建築で、
敷地面積は950坪。主屋、内蔵、物置、外風呂、外蔵の5棟からなっています。
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吉松忠敬、忠俊の親子によって大正8年に建設されました。
材料選び、着工、完成まで数年余りかかって作られました。
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吉松家とは、武士の家柄で、
豊臣秀吉の全国統一で配置替えとなった福岡権力の秋月氏に従って
江戸時代に串間市に入ったと伝えられています。
忠敬の父、卓蔵は庄屋を営み、
忠敬は、県議会員や衆議院議員などにも就任し、
政治面、経済面で、宮崎をリードしていた一族です。



中へ入ってみましょう。


天井は、格子模様の格天井(正方形に組造る天井)で、
格式ある方法で作られています。
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【玄関の間】
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一枚杉の板に、春の竹林に雀が遊んでいる所が描かれています。
これは、京都の絵描き職人が描いたもので、
現在でも当時のみずみずい状態を保っています。


【応接室・桜の間】
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唯一の洋間。文字通り、桜の木を使用しています。
壁は砂鉄を混ぜた壁材で塗りこんでいます。



元々武士の家柄なので、質素を旨としていて、シンプルさを基準としています。
決して、お金持ちのきらびやかさはありませんが、
高い天井や床、25畳もある大広間、今では手に入らない5寸柱のけやきなど、
武士の風情を感じさせるつくりをしています。


【大広間】
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天井は屋久杉ではられ、けやきの床の間があり、
質素な中に威厳を保った部屋。


【離れ部】
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床の間を備えた茶室、お客様用風呂などの水回りからなる。


【居室部】
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2階建て造りで、吉松家の生活の棟として使われていました。


台所では井戸水を使っていて、
かまどや流しなどの数から、大勢の人の食事を賄っていたことがわかります。
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【外風呂】
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現在は、見学者用に改築されていますが、基礎のこぶだし、


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腰の簓子下見板(ささらこしたみいた)、
そして、しっくい仕上げの真壁は、建設当時のままです。




選び抜かれた質の高い材料を使い、最高水準の建築技術で作られた旧吉松家住宅。
その輝きは、90年を経た今でも色褪せずに当時の姿を見せてくれています。
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2009年05月15日 金曜日

旧陸軍歩兵第64連隊・第23連隊本部、将校集会所

(放送期間:2009年5月15日から6月14日まで)

今回ご紹介する宮崎の歴史遺産は、
旧陸軍歩兵第64連隊・第23連隊本部と将校集会所。
都城市蓑原地区にある九州で3番目に小さい陸上自衛隊駐屯地。
都城駐屯地内にあります。

まずは、旧陸軍歩兵第64連隊・第23連隊本部。
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高さ5.7メートル、幅約11メートルの木造平屋造りで
軍の施設らしい極めて質素な造りです。
サッシに変えられた窓枠と、葺き替えられた瓦屋根以外は、
建設当時のままです。
以前は北側にもう1棟ありましたが、
現在はこの1棟だけが残っています。



昭和39年からは、「郷土館」という名で資料館として市民に開放されています。
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中へ入ってみましょう。


廊下と向かい合わせに展示場となる11の部屋があります。
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神話時代、戦国、近代と時代順にそって資料が展示され、
その数は1300点にものぼります。


昭和14年に満州国とモンゴルの国境付近で起きた、
日本とソビエトの大規模な武力衝突、モンハン事件、
都城特攻隊武隊・はやての資料など、
当時の様子を伺い知ることができます。
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また、こちらの消化栓の裏には・・・
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任期満了まであと2日となった兵隊のらくがきをしたものが残されていました。
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この施設は、戦後の一時期、工業高校の校舎として利用されていたそうです。


続いては、将校集会所。
都城市では最も古い洋館です。
バルコニーが開放的で、柱には装飾が施され優雅さを演出しています。
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9つの部屋があり、現在は外部からの自衛隊用の宿泊施設になっています。
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南側の1部屋は、増築されたものです。
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昭和10年、都城陸軍特別大演習で訪れた昭和天皇の休憩の為に
増築されたのだそうです。
ここに2時間程、滞在されました。
現在は幹部の集会場として使用されています。
 
 
幾多もの兵士を見送ってきた旧陸軍歩兵第64連隊・第23連隊本部と
将校集会所。
戦後64年を迎えた今でも、
平和の尊さを伝えるために、残していきたい宮崎の歴史遺産です。
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これから都城駐屯地は節目の年を迎えます。
平成22年、旧陸軍歩兵第64連隊移駐から100周年。
平成23年、警察予備隊第12連隊第2大隊移駐から60周年。
平成24年、第43普通科連隊創設から50周年。

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