2011年03月15日 火曜日
平和の塔
(放送期間:2011年3月15日~2011年4月14日)
今回ご紹介するみやざき歴史遺産は、平和の塔です。
宮崎のそこかしこから望むことができ、
平和の塔という名で、宮崎市民に広く知られた塔です。
平和の塔の建設が計画されたのは、昭和13年のことで、
当時の宮崎県知事、相川勝六の提案によるものでした。
設計は、彫刻家 日名子実三が行いました。
昭和14年5月20日、起工式。
その完成に至るまで、のべ6万人が動員され大工事が始まりました。
昭和15年11月25日に塔は完成します。
正面には八紘一宇の文字。
日本書記から得られた言葉で、世界はひとつの家という意味があるそうです。
正面入り口から中に入ると、
柱8本、日名子実三が描いたレリーフ8点などが展示されています。
日名子実三の高い芸術性と多くの人たちの献身的な支えによって建立された平和の塔は、
今年で71年目を迎えます。
平和の塔としてこれからもそびえ続ける、みやざき歴史遺産です。
2011年02月15日 火曜日
細島みなと資料館
(放送期間:2011年2月15日~2011年3月14日)
今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、
日向市細島にある、細島みなと資料館です。
日向市細島の港町の一角にある、
木造3階建の家です。
昭和57年前までは、
「高鍋屋」という旅館として営業していました。
高鍋藩秋月家指定の問屋であった「高鍋屋」は、
高鍋藩主秋月家の参勤交代の際の休憩場所となっていたところでもあります。
1階奥には、当主の居間や納戸などがあります。
2階には客室が3部屋あります。
料理を運び上げるための引き抜けなどが作られています。
細島の街や港が一望できる3階にも客室があり、
斜めに作られた棚や、木でつくられた飾りの巻物など
作り手の工夫が見受けられます。
日向市細島は、活気にあふれ、大いなる賑わいを見せていました。
その栄華を映す、旧高鍋屋旅館、細島みなと資料館。
大正のロマンを色濃く残す、みやざきの歴史遺産です。
2011年01月15日 土曜日
本庄古墳群と肥後街道
(放送期間:2011年1月15日~2011年2月14日)
今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、本庄古墳群と肥後街道です。
肥後街道は、国富町本庄の街を東西に貫く旧道で、
実に多くの古墳群が点在しています。
街道は、古墳群の中に出来た本庄の街の中をはしっています。
昭和9年、国の文化財に、57基の古墳が指定され、今に至っています。
肥後街道沿いに点在する古墳の上には、祠を設けたものがいくつかあります。
その中でも、最も大きな祠を設けているのが、本庄剣柄稲荷神社です。
「剣の塚」の上に鎮座します。
街道の東、犬熊と呼ばれる地区に、萬福寺があり、
重要文化財に指定された仏像なども納められています。
萬福寺から旧街道を西へおよそ1km行った所にあるのが、義門寺です。
義門寺からさらに西へ進むと、本庄中学校に出ます。
運動場の南には宗久寺が建っています。
肥後街道の東の端を萬福寺、西の端に宗久寺、中間地点に義門寺がすわる構図になっています。
それぞれの間に古墳が点在し、それを守るかのように神社が鎮座しているのが、
この街道の際立った特徴といえます。
古墳群の中に街が造られ、古代の街道を感じながら長い営みを刻んできた歴史街道。
その息吹を今も感じる肥後街道です。
2010年12月15日 水曜日
飫肥城下町
(放送期間:2010年12月15日~2011年1月14日)
今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、飫肥城下町です。
承応年間飫肥城下図を見ても、現在のものとほぼ変わりません。
江戸時代の地図で現在の町を歩くことが出来る町、
それが、伊藤家五万一万石の城下町、飫肥の町です。
飫肥の町はおよそ300年弱、伊藤家の領地として治められてきました。
城下はおよそ5つに地割されています。
周りには、口と呼ばれる外門が設けられていました。
それぞれの口近辺には、上級家臣の屋敷がおかれていました。
追手口には、塀で囲まれた、豫章館と呼ばれる、藩主の屋敷がありました。
町屋、現在の本町には、城下のほぼ中央を東西にはしる道路にそって配置されていました。
幕末には、およそ100軒の町屋があったとされています。
昭和52年には、「飫肥重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
現在も、侍とすれ違っても不思議ではない、そんな気分にさせてくれる
みやざきの歴史遺産です。
2010年11月12日 金曜日
神門神社鏡鑑と西の正倉院
(放送期間:2010年11月15日~12月14日)
今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、
美郷町南郷区神門神社にある33面の銅鏡と、西の正倉院です。
調査の結果、神門神社にある33面の銅鏡は、
4世紀から江戸時代初期のものであることが分かりました。
4世紀から5、6世紀の神獣鏡や
奈良時代初め頃の、海獣葡萄鏡、
江戸時代初期の近世和鏡、
中には中国や朝鮮から伝わったものもあります。
その中の瑞花六花鏡という1面が、
ここと奈良の正倉院と結びつけることとなりました。
【神門神社】![]()
これらの素晴らしい銅鏡を保存、公開するための収蔵庫作りが具体化し、
西の正倉院は、奈良の正倉院と同じ造りで建設されました。
木材は、木曾の天然ヒノキが2000本使われ、
瓦は12種類。38.078枚使用されています。
内部も、奈良の正倉院と同じ造りになっています。
中には、百済王伝説を伝えてきた、師走祭りに関係がある、
1006本の鉄矛も展示されています。
守られてきた鏡の数々と、百済王伝説は無縁ではないように思えます。
その存在価値は、時の長さとは無縁の
みやざき歴史遺産です。
2010年10月15日 金曜日
五智如来坐像と木喰上人
(放送期間:2010年10月15日~11月14日)
今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、西都市三宅にある、五智如来坐像です。
木喰上人によって彫られた木彫りの仏像です。
27年間、全国を行脚し、仏像を彫り続け、最も長く滞在した日向国分寺で彫りあげました。
大分から宮崎に入った木喰は、日向市平岩で、1体の勝軍地蔵尊坐像を残しています。
現在は、平岩地蔵尊として、地元の人に崇められています。
日向国分寺に入った木喰は、住職としてこの地にとどまることを求められます。
木喰が住職として日向国分寺にとどまって3年目に、日向国分寺は火事になり燃え尽きてしまいます。
再建を決意した木喰は、五智如来の彫像に取りかかります。
坐像は楠木で作られ、寄木造となっています。
約1年をかけて、五智如来坐像を完成させた木喰は、
寛政8年4月5日、日向国分寺を去り、79歳にして再び遍路の身となりました。
2010年09月15日 水曜日
旧後藤家商家交流資料館
(放送期間:2010年9月15日~10月14日)
今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、都城市高城町にある旧後藤家商家交流資料館です。
後藤家の分家の屋敷で、明治33年に、後藤伊助とその息子によって建てられました。![]()
木造2階建て、入母屋3層の屋根に、白漆喰の壁と石垣に囲まれた、豪華な家です。
養蚕や醤油の醸造など、商いを行っていました。
1階の床面積は71坪。
開放的な造りとなっており、天井も高く造られています。
各部屋は、障子と雨戸、板縁と土間で囲まれ、どこの部屋でもすぐに商談ができる構造になっています。![]()
1階には、後藤家で実際に使われていた家具や道具など、様々な物が展示されています。![]()
2階部分は床面積46坪。
部屋の周りを囲む廊下は、部屋の方から窓の方に傾斜が造られています。
雨が打ち込んでも自然に窓の方に逃がす工夫がされています。![]()
2階にも、生活用品など、当時使われていたものが展示されています。
110年経ってもなお、豪華な趣を保ったまま、高城の町に建つ、後藤家商家。
みやざきの歴史遺産です。![]()
2010年08月15日 日曜日
見立鉱山と英国館
(放送期間:2010年8月15日~9月14日)
今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、日之影町見立にある見立鉱山と英国館です。
青雲橋の袂から、山深く入ったところにあります。
昭和44年に閉山となった見立鉱山は錫の鉱山でした。
社員住宅や鉱山事務所、集会所、診療所などが立ちならんでいました。![]()
東洋鉱山株式会社 社長のハンスハンターによって建てられた英国館は、
鉱山の社員や来賓の社交場、宿泊施設として利用されました。![]()
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英国館は、当時は倶楽部ハウスという名前で親しまれていました。
この時代には珍しい造りになっています。
およそ80平方メートルのホールには、ベンチや暖炉があります。
床下にはスチーム暖房がめぐらされていました。
【ホール】![]()
【バスタブや洗面所】![]()
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【電気ストーブ】![]()
平屋建て、延べ床面積320平方メートルの建物内には、
ホールの他に、洋室が4部屋、和室も4部屋あり、
和の素朴と洋の合理性が融合した建物となっています。![]()
ハンスハンターは、大正15年、
旧延岡藩主 内藤政挙から、見立鉱山の経営権を譲り受けました。
その後、見立鉱山はさらなる繁栄を遂げ、
鉱山の象徴だった倶楽部ハウスの周りには、住宅や学校が建てられました。![]()
終戦と同時に鉱山は休山。
昭和29年から再び本格的な創業を開始しますが、昭和44年に閉山。
倶楽部ハウスは昭和61年に英国館と名を変え、見立の山に姿を現しました。
英国館は、まばゆいばかりに輝いたあの頃を今に伝える、
みやざきの歴史遺産です。
2010年07月15日 木曜日
堀川運河
(放送期間:2010年7月15日~8月14日)
今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、日南市油津にある堀川運河です。![]()
江戸時代前期に開削された運河で、飫肥藩 5代目藩主 伊東祐実の命によって、開削されました。
1683年12月5日に掘削を開始し、2年4ヶ月で完成しました。
全長900m、川幅平均27m、水深最大6mの運河です。
堀川運河は、
① 木材の搬送
② 関船の管理
③ 農地の確保 のために開削されました。
川を下り始めると、川岸に石積みのスロープを見ることができます。![]()
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弁甲材の上げ下ろし、新造船の進水、船の修理などに利用されました。
花峯橋をくぐりるけると、堀川運河の中で、もっともカーブの多い部分に差し掛かります。
昭和38年にかけられた見法寺橋などを見ることができます。
見法寺橋下流、西の方角にのびる象川は、飫肥杉の土場として改修されました。
堀川橋下流の右岸に、堀川へ下りる石段が見えます。
飫肥藩の蔵があり、飫肥杉や木炭等を蔵に集め、大阪の蔵屋敷に運んでいました。![]()
人柱伝説の残る、波止鼻を過ぎると、油津港へとそそがれていきます。![]()
開削から324年、油津の歴史をそこかしこに秘めながら、
今日も穏やかな流れを見せてくれるみやざきの歴史遺産です。
2010年06月16日 水曜日
去川御仮屋 二見家住宅
(放送期間:2010年6月15日~7月14日)
今回ご紹介する、みやざき歴史遺産は、高岡町にある去川御仮屋 二見家住宅です。
薩摩街道を東の方角へおよそ600m行った所にある、去川御仮屋 二見家住宅は、
江戸時代に置かれた、薩摩藩の「去川の関所」の御定番を勤めた、二見家の屋敷です。
「去川の関所」は、佐土原城下と鹿児島を結ぶ、薩摩街道の高岡筋に設けられた関所です。
関所跡から、わずかな距離の所にある、二見家住宅は、
洪水時や島津藩主が通る時の宿泊場所、休憩所として使用され、去川御仮屋と呼ばれていました。
島津斉彬や岩倉具視も立ち寄ったといわれています。
二見家住宅は、南九州の民家に見られる、二棟造りになっています。
座敷棟と居室棟に別れ、当初は、かやぶき屋根でした。
座敷棟は接客するための部屋です。
釘隠や式台など、賓客をもてなす配慮がされています。
居室棟は二見家の居住空間で、実用的な造りになっています。
これは、中央に囲炉裏を設けた、ナカエと呼ばれる部屋です。
【ナカエ】![]()
明治5年、薩摩藩の廃止とともに、去川関所もなくなりました。
二見家は、その後も、去川の地に留まり、御仮屋に住み続けました。
去川御仮屋 二見家住宅は、去川の歴史を語る、宮崎の歴史遺産です。![]()
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